幸せですか。そう、問われた言葉を頭の中で反芻する。幾度もそれを繰り返しているのに、未だにその結論は出てきてはくれなくて、代わりに苦笑を浮かべた。こんな風に思い悩むこともなく、その言葉にただただ頷いて微笑めれば素敵なのですが。魯粛はそう思いながら、向かいに座る彼に問いかける。


「趙雲殿。幸せとは、どういうものだと思いますか?」

「…はあ?」


 魯粛の問いには答えずに、趙雲は訝しげな顔を向けた。するとそれに苦笑して、実はですね、と魯粛は口を開く。


「先程、孔明様に訊かれたのです」


 そなたは、幸せですか?問いかけてきた孔明の表情は穏やかで、言葉通りに幸せそうな笑みが浮かんでいたのを魯粛は思い出す。その笑みを崩してしまうのが躊躇われた魯粛は咄嗟に笑みを浮かべて頷いてみせたが、内心はそうではなく、幸せという言葉の感覚を思い出そうと必死だったのだ。
 幸せ。言葉としては知っていても、その感覚を説明しろと言われると難しいし、胸のうちにあるどの感情がそう名のつけられたものであるのか、魯粛にはよくわからなくなってしまっていた。
 それを思い出したくて、魯粛は趙雲に問いかけてみたのだった。


「さぁ…そんなの僕に言われてもねえ」

「…そう、ですか」


 では、他をあたってみます。お礼の代わりにぺこりと頭を下げて去っていく魯粛の後姿に、趙雲は小さく呟く。


「…あいつといる時はいつだって幸せそうな顔してるくせに、気付かないなんて馬鹿だねえ全く」


 生憎それが本人に聞こえることはないけれど。








 幸せ、とは。特に行く当てもなくふらふらと歩きながら、魯粛は何度目かもわからないその問いを繰り返してみる。こうして孫権に仕えている今の心境は、果たして幸せと呼べるのか。充実しているという気持ちもあれば、同僚にも恵まれている。決して悪いところではない。しかし仕事をこなしている時に感じる気持ちは、求めているそれとはどこか違うように魯粛には思われた。
 だとしたら、一体どうなのか。ますます謎を増すばかりの問題に、魯粛はため息をひとつこぼす。するとその時、後ろからくすりという笑いと共に声がかけられる。


「どうしたんだい、ため息なんか吐いて」

「子瑜殿…!」


 途端に魯粛は表情を明るくし、諸葛瑾に微笑みかける。その見事な表情の変わり様に、諸葛瑾は再び笑みをもらした。


「これは丁度良いところに来てくださいました」

「魯粛、あんた一体何の話をしてるんだい?」

「えっと、つまりですね…」


 ここに至るまでの経緯を簡単に説明して、魯粛は期待を込めた表情で諸葛瑾を見つめる。やがてその視線を受けて、諸葛瑾はゆっくりと口を開いた。


「すまないけど、それはあたしにもわからないよ」

「子瑜殿にも、ですか?」

「いや、なんとなくならあたしにもわかるんだけどねえ…」

「それでも構いませんので、お聞かせ願えますか…?」


 魯粛の唇にすっと人差し指を当てて、諸葛瑾は彼を制した。そして、そのまま幼子に諭すかのように続ける。


「幸せの定義なんてのは人それぞれで、あたしにとっての幸せも、あんたにとっての幸せも似ているようでどこか違うものなのさ」

「…そう、なのでしょうか?」

「だから、あたしが一概にこうだと言えるようなものじゃないんだよ」


 あんたの幸せはあんただけのものさ。そこまで言って、諸葛瑾はふわりと笑んでみせた。その表情は、魯粛に幸せかと問うた彼の弟のものと雰囲気がよく似ていて。きっと彼も今幸せなのだろうと、魯粛はぼんやりと思う。そして、再び考える。自分はどうなのだ、と。
 そうしてみた時に一番最初に浮かんできたのは、諸葛瑾と共に笑い合って過ごしてきたこれまでの日々。きらきらと思い出たちの中で輝くそれは、初めて会ってからどれほど経っても色褪せることはなく、こうして何気ない言葉を交わすことで、そのきらめきは更に増してゆく。何よりも眩しい記憶。そして、それに伴い存在する感情も。


「…子瑜殿」

「何だい?」

「ありがとうございます」

「大したことはしてないよ、役に立てなくて悪かったねえ」

「いえ、そうではなくて…」


 そこで一度言葉を切って、魯粛は諸葛瑾を抱きしめた。そして、その耳元でそっと囁く。私にも、ようやく幸せの意味がわかった気がするのです、と。その言葉に思わず顔を上げた諸葛瑾を待ち受けていたのは、ひどく優しい口付けだった。唇が離れた刹那、視界にとらえた魯粛の表情は。


「きっと今のこの気持ちが、私にとっての幸せなのでしょう」


 幸せそうに微笑む魯粛に、諸葛瑾も同じように笑みを浮かべた。
 幸せですかという孔明の問いが、魯粛の頭に浮かぶ。けれど今なら頷くことに、躊躇いなどあるはずもない。幸せだと、きっと満面の笑みで言えるだろう。満面の、幸せそうな笑みで。




080604